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あの十一面観音が繋いだ縁、修復家人生が始まった瞬間 #2

文化財修復家の久保暁子インタビュー「かたる」第2話
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会社を退職し、山形へ。それは、修復家としての第一歩を踏み出した瞬間だった。
工具の扱いも、漆のにおいも、何もかもが未知の世界。手探りの日々のなかで、ただひたすらに「仏像修復」という仕事に向き合う時間が始まった。
東北芸術工科大学・東北古典彫刻修復研究所で過ごした1年。それは、技術を学ぶだけでなく、自分の中に眠っていた何かを呼び覚ますような時間でもあった。後に多くの出会いを導くことになる、その原点の物語、久保暁子が「かたる」第2話。

文化財修復家の久保暁子「かたる」

山形で出会った仏像の世界

そして1ヶ月の引き継ぎ期間を終えて会社を退職し、山形へ渡って東北芸術工科大学・東北古典彫刻修復研究所に入りました。
もう本当に何もわからない状態でのスタートでした。大学1年生が受けている基礎の授業を一緒に受けさせていただき、デッサンから始まり、刃物を研ぐ、漆の刷毛を仕立てる、漆の定盤を作る、カンナを仕立てるなど、まさに基礎の基礎を一から学ぶ日々でした。その中で、ゼミ旅行で先生方と一緒に奈良や京都などの仏教美術の現地を訪ねたり、韓国の仏像を巡るツアーにも参加したりしました。研究生としては1年だけの在籍でしたが、本当に充実した毎日を過ごせたと思います。

正直、山形に行く前はそこまで気持ちは強くなくて「とりあえず1年やってみてダメだったらまた会社員に戻ればいいか」くらいの軽い気持ちだったんです。でも実際に歴史や背景を感じながら仏像の修復に向き合ってみると、本当に面白くて、気づけばどっぷりハマっていました。ハマった理由のひとつは、これまでの経験ともつながっていたからだと思います。

アジアを旅していたこと、奈良や京都に近い大阪に住んでいたこと、お寺を訪ねたり仏像を見たりすることが、もともと自分にとって遠いものじゃなかったんですよね。旅先でもアジアの仏像修復の現場を見る機会があったりして、その延長線上に自然と修復の世界があったという感じでした。

そんな流れで、山形での研究を終えたあと、大宮の先生の工房にほぼ無給で手伝いに行くことになりました。でもその“大宮編”は、およそ半年ほどで幕を閉じることになりました。

文化財修復家の久保暁子のインタビュー「かたる」

渡岸寺の十一面観音が結び合わせた縁

少し時をさかのぼって、山形時代のことなんですが。
ゼミ旅行で滋賀県の渡岸寺を訪れて、「十一面観音」の前で仏像を眺めていたんです。そのとき、一緒に行っていた学生さんが、偶然卒業生の女性(本間さん)と再会して、その方が、のちにわたしが深く関わることになる“千葉・長南町の親方”のもとで修復を学んでいたお弟子さんだったんです。
ちょうどわたしは東京に戻ることを決めていた時期で、「東京に帰るので、もし何かあったらよろしくお願いします」くらいのご挨拶をして、その場ではそれきりでした。
数ヶ月が経ち、本間さんが親方のもとを辞めるときに、突然わたしのところに連絡をくれたんです。「よかったら手伝いに来ない?」と。
そして話は進み、本間さんが辞めるタイミングでわたしがスイッチして入る予定だったんです。ただ、家庭の事情もあって一度はお断りしたんですよね。でもその少し後、河本さんから「来ないって言ってたけど、一件調査の仕事があるから、もし時間があったらその日だけでも来てみない?」と声をかけていただいて、そこから河本さんの元で働くことにもなりました。

それがわたしの29才の春でした。
そのときの調査は仏像ではなく、「仏教法要のときに使うお面の調査」だったんです。
そしてその現場で、のちにわたしの修復の道に大きく関わることになる濱名順徳さんと、初めて出会うことになります。

文化財修復家の久保暁子のインタビュー「かたる」修行時代

河本親方と歩いた15年受け継いだ心

河本さんのもとでは、だいたい15年ほどお世話になっていました。少し記憶があいまいな部分もありますが、手がけた作品としては、富津市の「東明寺薬師如来立像」や「道明寺阿弥陀如来坐像」、長柄町の「眼蔵寺釈迦如来坐像」、茂原市の「永興寺釈迦如来立像」、南房総市の「真野寺大黒天立像」や「小松寺薬師如来立像(お前立)」、長南町の「長福寿寺阿弥陀如来坐像」、市川市の「徳願寺仁王像」、茂原市の「行徳寺仁王像」、山武市の「勝覚寺釈迦如来坐像」などがあります。

文化財に指定されている仏像だけでもこのあたりで、年間では20体以上、延べで200体を超える修復をしていたと思います。修復だけでなく、当時から調査や展示協力、講演・ワークショップ、ツアーのお手伝いなどにも関わっていました。やっていること自体は、今とあまり変わっていないかもしれませんね。それから、河本さんが地域おこしのような活動をされていたときは、福島県三島町でお手伝いさせてもらったこともありました。

親方との仕事は本当に楽しかったです。あっという間の15年でした。まわりからは「大変だね」とよく言われていましたが、わたしは不思議とそうは感じなかったんです。むしろ、河本さんがそんなに長いあいだわたしを雇い続けてくれたことに、今でも感謝しています。彼は自分のスタイルをしっかり持っている方ですが、いつもフラットで、ほんとうに良い人なんですよ。

国内宿泊

決断の先に開いた、新たな物語

長年、過酷な環境の中で働いていたこともあって、だんだん体に異変を感じるようになったんです。「少し休んだ方がいい」と判断し、河本さんのもとを離れる決意をしました。

当時のわたしは「河本さんのところを辞めたら修復家としては終わり」だと思っていました。自分ひとりで仕事をした経験もなかったし、営業なんてできないから、辞める=この世界から足を洗う、くらいに考えていました。

2015年に河本さんのもとを辞めて、2017年に独立するまでのあいだにも、いろいろなことがありました。
辞めた後も、河本さんから外注として仕事を任されることがあって、最初は週に1日ほど河本さんの工房で働いてましたが、だんだん増えていって最終的には週5日、一緒に仕事をしているような状態になっていました(笑)

一方で、辞めた直後は失業手当を受け取るために就職活動もしていて、その時に堀内カラーという会社で、デジタル画像処理の仕事を外注として手伝っていた時期もあります。そこで画像処理を教えてくれた方が、今もわたしのウェブサイトやロゴデザインなどを手がけてくれていたりと、当時のご縁が、今につながっていたりします。

そして、2016年の終わり頃、濱名順徳さん(天台宗宝聚寺)から「久保ちゃん、調査の仕事があるんだけど、1人でやるのは不安かもしれない。でも一緒にやってみない?」と声をかけてもらいました。今のわたしにとっての大きなターニングポイントになりました。

文化財修復家の久保暁子「かたる」
国内宿泊


執筆者のひとこと
未知の世界に足を踏み入れるとき、人はいつも手探りでしか進めない。けれど、その不安や戸惑いこそが、やがて確かな感覚へと変わっていく。山形での経験、河本さんのもとでの経験が独り立ちという決断の支えになっているように感じた。
そして、これまでの繋がりが新たな環境へと導いていく。

第2話「あの十一面観音が繋いだ縁が、修復家としての人生を動かした #2」をご覧くださり、ありがとうございました。次回、第3話「仏像と向き合あって見つけた“修復”への想い #3」お楽しみに。

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